8.17.2017

Roermond


ミロス・フォアマンによる映画『アマデウス』というモーツァルトを題材とした映画があるのだが、この映画は、僕が生涯に見た映画の中で、5本の指に入る傑作である。

面白いのは、モーツァルトを主題としながら、主人公がモーツァルトというよりも、「アントニオ・サリエリ」という男であることだ(サリエリを演じたF・マーリー・エイブラハムは、この映画でアカデミー主演男優賞を受賞した)。「サリエリ」なんていう男は、よほどのクラシック好きか、この映画を見た人間でないと知らない男だが、当時は世俗的に成功していた(らしい)。『アマデウス』のおかげで知名度が上がり、近年は再評価の動きもあるらしいが、その名もその作品も忘れ去られていた男である。

前置きが長くなったが、人生の惨めさというのは、つまるところ、私たちのほとんどすべてはせいぜいのところ、サリエリだということなのだ。

世俗的に成功するということは大変なことだし、それ自体幸運なことだけれど、しかしそれは、まったく虚しさとか空しさを解消するものではない、と思う。

サリエリのような人間は、現代でもたくさんいるな、と思う。僕が不思議なのは、彼らが、自分がサリエリであることに、まったく思い至らないようであることだ。

My music, growing fainer. All the time, fainer, till no one plays it at all.

『アマデウス』の最終シーンは、衝撃的な皮肉である。精神病院の病棟を、サリエリは、

Mediocrities everywhere! 
I absolve you. I absolve you all.

と、車いすに押されながら進んでいく。カメラは、ぎこちない動きをする精神病患者を映す。檻に入れられてもがく男。首輪をつけられ、痙攣的に震える男。僕の解釈によれば、これはモーツァルトから見た僕たち自身、つまり「凡人」だ。モーツァルトからみれば、僕達など精神病院の住人と変わらない、というのだ。

しかし、サリエリの最後の台詞、

I absolve you all.

という言葉には、凡庸な人間に対する愛が込められている。

8.16.2017

Roermond


どこに書いてあったのかは忘れたが、人が恐れる問題は三つあって、それは病気や死などの健康問題と、お金の問題と、人生の無意味さ、ということであった。

なるほど。しかし、この三つの問題のうち、人間に少しでも勝利の可能性があるものは、お金の問題しかないな、と思う。

友人に経営者がいる。彼は、三つくらいの事業を同時に進行している。学生の頃から、彼の行動力には感嘆してきたが、今でも驚かされる。一方僕はといえば、経営者にはとてもなれそうにない。人は、なれるものにしかなれないのだ。僕は経営者にはとてもなれないし、政治家はさらに無理だ

それらになるには、よほどの本気度が必要だ。しかし僕は、心の奥底で、政治も経済もどうでもいいと思っている。無意味だ、と思っているのである。本当は、無意味なはずはない。それは多くの人々の人生を、悲惨から救うはずだからだ。

しかし悲惨と虚しさは区別しなければならない。虚しくあることは、悲惨であることよりもよい。

前置きが長くなった。ウディ・アレンによれば、人生は、悲惨なそれと惨めなそれの二つに分けられる。

"I feel that life is divided into the horrible and the miserable. The horrible are like, I don’t know, terminal cases, you know, and blind people, crippled. I don’t know how they get through life. It’s amazing to me.
And the miserable is everyone else. So you should be thankful that you’re miserable, because that’s very lucky, to be miserable."

拙訳:「私は、生というものは悲惨なそれと、惨めなそれの二つに分けられると思う。悲惨な人生というのは、そうだな、末期癌とか、目が見えないとか、手足がないとか、そういう生だ。彼らがどうやって生きているのか、私にはわからない。すごいことだと思う。惨めな生っていうのは、その他すべての人間の生だ。だから、自分の生が悲惨でないなら感謝すべきだし、実際、惨めであるということは、幸運なことなんだ」

アレンはこう言ったらしい。彼が本当にこう言ったかわからないが、僕はこの言葉に完全に同意する。「惨め」という言葉に関しては、「空しい」とか「虚しい」と僕は表現するけれど。そして、惨めであることはラッキーであるというのも、ポイントだ。悲惨であるよりは良いし、それは僥倖である、とも感じる。

写真は、オランダのあるショッピング・モールの写真だけれど、ショッピング・モールで休日を過ごすということはまさしく惨めだと思うし、ショッピング・モールで買い物ができるというのも、まさしくラッキーなことだと思うのである。

Roermond


もともとそうだけど、だんだんブログが散漫になってきた。問題ないけど。ひきつづき散漫にやっていこうと思う。

ブログを始めたころは、自分の興味の対象は写真やカメラにあった。しかし、最近は、もともとの関心であった文学、語学、書くことに加え、物理的な行為としての書くこと、すなわち、万年筆で紙に書くこと、に関心が移ってしまった。

「万年筆で紙に書くこと」がこんなに素晴らしいことだとは知らなかった。このことは少しばかり後悔している。もっと早く、できれば大学に入るころには知っていたかった。知っていれば、大げさではなく、僕はこの20年間をもう少しだけ楽にサバイブできただろう(ついでにいえば、第二外国語は、ドイツ語にすればよかった。僕は中国語を選んだが、あれは大失敗だった)。

物欲は減退したが、そこで万年筆に対して、興味が湧いている。しかしもう、たとえば5万円以上もするモンブランを買おうとかは、まったく思わない。

ラミーのサファリは、万年筆としては入門という位置づけのようであるが、今もっているサファリとアルスターで十分だな、というのが正直なところである。もう「高価なもの」とか「ブランドもの」というものに興味がでないのである。

でもサファリが素晴らしいので、もう一本、そこそこの万年筆があればいいかな、と考えていたら、街の文房具屋にペリカンのスーベレーンが売られていた。ネットで「スーベレーン」を検索すると、ずいぶんと高価である。ペリカンも、これこそ万年筆のブランドである。

しかし売られていたスーベレーンは、ずっと安い(100ユーロ)。スーベレーンにもいろいろあるのだろうか?廉価版みたいな?